(小冊子No.7より) 

エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。

昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。

主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。

(イザヤ62章6節)新共同訳

2006年9月、私はエルサレムに三週間近く滞在し、多くの霊的祝福を受け取りました。けれども、私にとって最も印象的だったのは帰りの飛行機の中での出来事でした。テルアビブからイスタンブールまで、2時間のフライトですが、その間、私はエルサレムをしたい求め泣き続けていました。

エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。(詩篇137:5-6)といったようないくつもの御言葉が私の頭の中をぐるぐると渦巻いていました。

自分が普通ではない事に気がつき、私は、これはいったい何なのかと主に

尋ねたところ「あなたのうちに住まわした私の御霊がエルサレムをねたむほどに慕い求めているのだ。」と答えがありました。私はそうなんだと納得しつつも、ただエルサレムを思い泣きながらとりなし祈り続けていました。

そういった事を一時間も続けている内に、また、ふと別の疑問がわいてきました。というのも、エルサレムにいた時には、もちろんその街を愛していました。けれども、これほどは、エルサレムを慕っていなかったからです。そして、特に、祈りの祭典の間は、24時間の祈りの塔で、エルサレムの為というより、むしろ日本や、ほかの国々のために祈っていました。エルサレムにいた時には、ほかの国の為にばかり祈っていたのに、どうして今こんなにエルサレムをしたい求めているのか不思議に思い、また主にたずねました。

 

すると「それは今、あなたがエルサレムにいないからだよ。」と主の答えがありました。エルサレムにいないからこそ、エルサレムを慕い求める。その時に私ははっと気がつきました。JHOPFANが言っているところのエルサレムのために祈り、エルサレムから全世界のために祈る。」という言葉の意味をはっきりと理解したからです。

私たちがエルサレムにいない時にこそ、主が私たちのうちに住まわした御霊が、ねたむほどにエルサレムを慕い求め、その主の熱心さを持って、私たちはエルサレムの為に祈ることができるのです。

そして、私達がエルサレムをしたい求め、私達の心がエルサレムにある時に、私達は全世界のために、そして日本のために祈ることができるのです。

そしてその祈りには力があります。なぜなら、主の目が注がれているエルサレムを支点として祈るからです。

そして、この旅行の結果私はさらに日本を愛するようになりました。エルサレムの為に祈るには自分を、そして自分の国を愛していなければなりません。聖書は「自分を愛するように他の人を愛しなさい。」と語っています。

 


帰還民の荷物を運ぶボランティア達

エベネゼル緊急基金がとりなしの団体と呼ばれているのは単にその祈りについてだけではなく、イスラエルと共に立つ活動そのものがとりなしなのです。

過去のトラウマにより日本を愛する事ができない日本人は大勢いますが自分の国、民族を愛する事は大切です。

ですから「イスラエルの為に祈る」ことの意味は単に、イスラエルに平和があるようにというような一つの祈りの課題ではありません。エルサレムの為に祈る事は多くの祈りの課題の一つではなく祈りの土台なのです。

祈りの祭典は毎年エルサレムで開かれており、今回120カ国もの国々から人々が集まりました。そこで、2週間、24時間止まることなく集会と祈りの時がもたれています。それはまさに霊的世界の国際連合です。エルサレムには全世界を結び合わせる働きがあるのです。

新共同訳聖書で詩篇122編3節は「エルサレム、、そこに、すべては結び合う。」と訳されています。

私たちの心がエルサレムにあるときに、私たちはひとつとなることができるのです。

JHOPFANとは「エルサレム万国祈りの家」の略で20年前から24時間の祈りをオリーブ山で続けており毎年祈りの祭典を催しています。

エルサレムには24時間の祈りの塔が少なくとも3つあります

 

 

return