![]() (小冊子No.6より) とりなしの祈りの本質は、いった何でしょうか。どうして私たちは祈らねばならないのでしょうか? 創世記(1章26−27節)にあるように、この地上を治めるために神は人を自分の似姿に作られました。けれども人が神との契約を破ったために、地上の支配権が一時的にサタンに移ってしまいました。そのことはマタイ4章9節でサタンは地上の支配権を主張したにもかかわらず、イエスはそれを否定しなかった事からもわかります。 しかし、キリストは十字架の死と復活によって、この支配権をサタンから取り戻し「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:11)と宣言されました。ですから、現在サタンには支配権はなく、ある意味においては人に対する神の哀れみ故に時が伸ばされている事と人の罪を足がかりに居座っているだけといえます。 ![]() それでは、そのサタンの仕業を打ち砕くのは誰でしょうか。それを知る為に、神が最初に定められた永遠の計画に目を留めてみたいと思います。 聖書を見る時に「仲介者」と「とりなし手」が、同じ意味として使われている事が分かります。ヘブライ語で「仲介者」は(メリーツ)その意味は「代弁者」=とりなし手という意味です。 天と地をつなぐ存在が仲介者であるという観点から言えば、地上で最初のとりなし手はアダムでした。(第1コリント15章45節参照) 神であるイエスが人としての性質を持たれたのは傷のない完全な私達の罪の身代わりとなる為でした。さらに、その事柄を「とりなし」という観点で見るなら、彼が人となられたのは「人=原語でアダム」を仲介者とする事が神の最初からの計画だった故なのです。 神は、定めた事柄を状況が変わったからといって途中で変更する事はありません。エステル記でユダヤ人絶滅命令は取り消されませんでしたが、それよりさらに優れた法令が発布され、それによってユダヤ人は勝利したのです。 それはちょうどローマ8章2節にあるように、死の原理が命の原理に飲まれたようなものです。
ですから、今日でも人の祈りを通じて世界を動かそうという神の計画は変わっていません。 「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20章21節) そうです、神はキリストがされたように祈りを通じて天と地をつなぎ、破れ口に立つ役割を人に与えられました。 だけど好き勝手なお願いをしていいというわけではありません。キリストが唯一の仲介者(とりなし手)(1テモテ2章5節)とあるように、私達はキリストが定めた範囲内で、その役割の一部を譲渡されているだけなのです。 ですから、とりなし手としての最も重要かつ基本的な姿勢は何を祈るのか、どのように祈るのかを「神から聞く」ということです。 「とりなし」とは単なる祈りの一つの方法ではありません。イエスは神の右に座してとりなしているから仲介者となられたのではなく、我らを哀れみ、人となり、重荷を負われたのです。すなわちイエスが地上でなさった働き、すなわち彼の行動や存在意義すべてが「とりなし」だったのです。
私たちは日常的に人の救いや必要が満たされる為に祈ります。それはすなわち、祈らねばたとえそれが御心であっても成就されない可能性があるということを意味しています。 「父は私たちの必要のすべてをご存知です。」(マタイ6章31節) 父がすでに知っておられるのに、私達が祈らねばならないのは、何も父が意地悪をしているわけではありません。仲介者として、私達に与えられた責任にしたがって「私たちの祈り」という形で宣言されねばならないからです。 それは大きな責任です。それゆえ神はとりなし手を捜し求めているのです。(エゼキエル22章30節) もちろん、人はその働きと責任を自分の力で担う事はできません。 それゆえイエスはわれわれを遣わすときに「聖霊を受けよ」(ヨハネ20章22節)といわれました。それゆえすべてのクリスチャンは聖霊の力によりその働きをすることができるのです。 「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16章20節)
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